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現代短歌への疑念-『うたと日本人』

<2022年6月18日>


谷川健一の『うたと日本人』(講談社現代新書)を読みました。


奥付を見ると、刊行は2000年。


書店で購入した時はほんの少ししか読まないまま


ずっと取っておいたようです。


20年以上もそのままにするなんて!


でも、私にとっては当時より今読んでよかったように思います。


当時は万葉集の勉強も始めていませんでした。


今のほうが、少しは理解ができる気がします。


この本は日本におけるうたの原初から


明治時代の正岡子規の『再び歌よみに与ふる書』まで、


万葉集や梁塵秘抄に多くページを割きつつ


長いスパンでうたについて述べています。


その掉尾には現代短歌について次の文章があります。




ーーーここから引用ーーーーーー


こうして俳句や短歌は個人の営為となるにしたがって、


和歌・連歌・俳諧に見られた対話性と唱和性は


邪魔者として捨てられた。


(中略)


俳句や短歌の文学志向は、


個人性、密室性、難解性、洗練性だけを追求するようになり、


連歌や連句など集団のたのしみから遠く離れてしまった。


ーーー引用ここまでーーーーーー





さらに、あとがきは次のように書き出されています。




ーーーここから引用ーーーーーー


現代短歌に対する私の疑念は、


短歌が文学であるという固定観念に


自縛されているのではないか、


ということである。


柳田国男は、歌は国民の共有財産で、


日本人の精神を豊かに美しくするものとして、


日本人がみんなで楽しむものだという考えから、


歌を国民の「おもやひのもの」と呼んだ。


昔は共同社会の名も無き人々によって


「よみ人知らず」と書かれた歌が大部分であり、


それが文学とは夢にも思わなかった。


しかるに今は、文学の功名心に駆られて


鬼面人をおどろかす歌を作り、


その結果、奇をてらい、新を競う珍種が


やたら人目につくようになった。


それは自分一己の楽しみであるかもしれない。


しかし昔は、表現の巧拙は二の次、三の次であり、


自分の思いを人々に伝えるのが先決と考えられていた。



ーーー引用ここまでーーーーーー




けれども、あとがきではこのあと、


近年になってアニミズムへの傾斜という主張が


目立ってきたとして、


それがどのようなかたちで現代短歌に生かされるか、


新しい世紀への課題であると述べています。



この本は2000年、


つまり20世紀最後の年に出版されたので


著者は21世紀の現代短歌へ向けて


希望というか、宿題というか、


そうしたものを提示していると読みました。


21世紀になって、すでに20年以上がたちます。


あとがきにある「今」と私たちの「今」とは


同じとは言えませんが、


たまたま私もうたの対話性というものについて


考えているところだったので


著者の問いかけはこれからも忘れずにいたいと思います。







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