炭坑に生きた歌人、山本詞(3)
『嘉麻の里』237号(平成17年2月号)の「炭鉱を詠んだ歌 小川賢」と題された記事。
その冒頭にはこうあります。
――――ここより引用――――――
筑豊炭田の御三家のひとつ、伊藤伝右衛門が経営していた大正鉱業のあった
中間市に、工藤光次郎という人がいて、多くの雑誌や新聞から長年にわたって
歌を切り抜いて、それらの歌どもを昭和五十一年になって『短歌と写真による筑豊
炭田史』として一冊に纏められている。
(略)いただいた当初は新聞記事からの切り接ぎによる本かとの印象が強くあった。ところが今回、読みなおしてみて、新聞や雑誌からの引用にしても、これだけの量を集めるのは不可能とは言わないが、多くの日時を要するであろう。何らかの形で再び世に問うてもよいのではないかとの思いにいたっていたところ、幸いな事に本紙をお借りできるはこびとなった。
再録にあたっては工藤氏の再録分に筆者の集めていた分も若干加えている。
筑豊から炭坑が消えて久しい。ここに収められている歌どもは、石炭から石油にエネルギー政策の転換によって、その炭坑が次々に消えんとしていた昭和三〇年頃から詠まれた歌である。地底での作業の厳しさ、給与の遅配による日々の生活への不安。されども転職もままならない。そのような炭坑で働いていた市井の人々の姿が、ここでは浮き彫りとなっている。
(後略)
―――――引用ここまで―――――
かつて筑豊でどのようなことがあったかを知るきっかけとなれば、という願いがこめら
れたこの記事はシリーズとして253号(平成18年6月号)まで17回にわたって掲載され
ています。1回に二十首を紹介しているので合計三四十首になります。
作者名には所属する炭坑名(または住所)が添えられていて、
筑豊だけでなく大牟田、若松、香月、八幡、福岡から、佐賀県の
伊万里、大分県の津久見、熊本県の荒尾、山口県の宇部、東見初などもあります。
何首も掲載されている人や、後にわかったのですが本名と筆名の両方で載っている
人もいるので、作者の人数は三四十を下回ります。
また、作者には炭坑で働く人だけでなく、その妻や娘もいます。
三四十首のうち、十五首が山本詞のうたです。
ですが、最初にこの歌の数々に触れた時は、
山本詞だけに注目したわけではありません。
市井の人々が詠んだという短歌のレベルの高さを感じましたし、
胸に迫るうたもあり、夢中ですべての掲載作品を読みました。
シリーズ「炭鉱を詠んだ歌」の初回に再録されているうたから三首を記します。
炭車押せば炭車の中より蝶ひとつ花びらのごと舞ひ上がりけり
若松 勝本千昭
汗たるる肌ふれ会いて避難所に発破の瞬間息つめて待つ
飯塚 塚本不二男
被災者のまだ昇りこぬ坑口に指組み祈る少女ら立てり
田川 行武 仁
(※二首目の「会いて」を含めてすべて掲載のとおりに引用)
筑豊最後の炭坑が閉山して四十年以上がたちますが、文献を紐解かなくても、
三十一音という短い詩型から炭坑で働いた人々の思いが生き生きと感じられ、
その生活がありありと立ち現れてくるのです。