『紫の梅』③-はらからと白蓮さん
歌集『紫の梅』には関東大震災を詠んだ「大禍日」二十八首が収められています。
その中に「はらから」が出てくるうたが数首あります。
はらからはわが名を呼ばず火に追はれ二日三よさを野にふせる日も
柳原白蓮
白蓮さんは1885(明治18)年、柳原前光伯爵と士族の娘で芸者をしていた
奥津りょうの間に生まれます。
生後七日で柳原家に引き取られ、実母のりょうは三年後に亡くなります。
柳原家には正妻の初子が産んだ長男義光と長女信子がおりました。
燁子(後の白蓮さん)は当時の公卿の慣習にしたがい里子に出されます。
里親の家には子どもがふたりおり、燁子の乳兄弟ということになります。
1892(明治25)年に柳原家に戻った燁子は、さらに二年後、親戚筋の
北小路子随光爵家の養女となり、そちらには息子資武がおりました。
資武は義理の兄というより実は親同士が決めた燁子の許婚でした。
冒頭のうたの「はらから」ですが、燁子には同じ母親から生まれた
きょうだいという意味でのはらからはおりません。
ここでうたわれているのは柳原家の兄、義光のことではないかと思います。
燁子が北小路家の養女となった1894(明治27)年の秋に
父、柳原前光伯爵は亡くなり、兄が家督を継いでいました。
柳原家の姉信子はこれまで折にふれて燁子に手を差しのべていますが
兄義光は妹が世にいう白蓮事件を起こしたとき どう思ったでしょうか。
当代の天皇(大正天皇)の御生母を叔母にもち、自身は貴族院議員という
立場にあります。
当時の新聞を読む機会があったのですが、新聞紙上ではこの件について
読者の意見を含めて侃々諤々の議論が沸き起こっていました。
その中で柳原義光伯爵が白蓮さんについて述べたことばとして
「妹はいま健常ではないように思える。今まで神経科の医師にみてもらったことは
ないが、受診させることも考えている」という趣旨のことが書かれています。
白蓮さんは出奔後に宮崎龍介とともに過ごせたのは二か月ほどでしかなく
柳原家に連れ戻されるかたちになって、その後二年を離れ離れに暮らしたことは
前回に記しました。
この記事は白蓮さんが連れ戻されてまもない頃のものと記憶しています。
柳原前光伯爵のことばは立場上から出たものかもしれませんし
実際にそのようなことを口にしたかは確かめようがありませんが
この記事を白蓮さんは目にしたのでしょうか。
目にしたとしたら、どんな気持ちであったのでしょう。
白蓮事件の次の年、1922(大正11)年に兄、柳原伯爵は事件の責任をとるかたちで
貴族院議員を辞任します。
翌年に関東大震災が起きて、白蓮さんは当時身を寄せていた中野家で被災します。
その時、柳原家からは何の連絡もなかったということです。
(参考文献:『柳原白蓮-燁子の生涯-』 阿賀佐圭子著・九州文学社)