高取焼-登りがまの謎
飯塚市歴史資料館では定期的に郷土の歴史に関する連続講座が開かれています。
全回でなくても一回のみでも受講できるので
関心のあるテーマの回は時間の都合がつけば申し込むようにしています。
(通常の入館料220円だけで受講できるのもありがたいです♪)
現在は「第4期 飯塚市史発刊記念講座」がおこなわれていて
その中の「近世の飯塚-高取焼の生産と流通-」を拝聴しました。
講師は館長の嶋田光一さん。
嶋田館長は高校の郷土部の先輩です。
私が1~2年生の時、OBとしていらしたことが何度かありました。
今回、高取焼の中でも私が特に関心をもっている
初代八山の渡来や山田村蟄居事件、白幡山窯(現在の飯塚市にありました)
について、初めて知ることがありました。
たとえば、秀吉の文禄・慶長の役の際に連れてこられた八山たちは
登り窯でやきものをつくったわけですが
最初は割竹式登り窯であり、これは現在の韓半島での製法でした。
内ケ磯窯に移るとこれが階段状連房の登り窯になります。
登り窯と聞いて私たちが一般に思い浮かべるのがこちらです。
実は、階段状連房登り窯は当時の朝鮮にはなかったそうです。
現在の中国・福建省のあたりから伊万里に伝わり、
それが高取焼でも取り入れられたのです。
(白旗山窯もこの形式です)
中国からどのように伊万里に伝わったかはわかっていないのだとか。
また、八山たちが山田村に蟄居させられて
黒田藩から監視役がついていた間は扶持を召し上げられており
雑器(食器などの日用品)をつくって生活していました。
その間は茶陶はつくらなかったと言われてきましたが
窯跡から茶入れの破片がみつかっているというのは
興味深いお話でした。
充実の二時間。
まだまだお聴きしたいことがたくさんあります。
嶋田館長も時間が足りなかったごようすでもありました。
またの機会を楽しみにしたいと思います。