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炭坑のまち①-白蓮さんが夢見た女学校

<2024年8月27日>


9月7日(土)に飯塚市歴史資料館の歴史講座でお話をします。


タイトルは


「子どものころ炭坑があった~短歌に詠む1960年代、私の筑豊~」。


父が炭坑に関わる仕事(自営)をしていたとはいえ


私は炭住に暮らしたことはないのですが


子どもだった私にとって炭坑とは何だったのか、


うたを通してお話しする予定です。


うちの近くに大きな炭坑があった時代、


私は子どもだったので


炭坑の歴史などは知らなかったのですが


高校を卒業してから


自分で本を買って読み、いろいろなことを知りました。


明治時代以降、日本の近代化を支えたといわれる筑豊炭田。


明治30年代には全国の出炭量の半分を占めるようになります。


その時々の時代の荒波にもまれながらも


炭坑がもたらす筑豊、特に飯塚をはじめとした街なかの繁栄ぶりは


今では想像が難しいくらいだったようです。


その反面、坑内作業はは危険な仕事であり


坑内事故や鉱害、戦時中のできごとなど


命を落とした人々も多くあるたいへんなできことが


いろいろと起こった場所でもあります。


言ってみれば筑豊の炭坑は


とてつもなく大きな光の部分と


底知れぬ暗さの影の部分の両方をもっていると感じます。


このたびの歴史講座にあたって


メインのお話は私の子ども時代に見た炭坑とそれを詠んだ短歌ですが


その準備として


改めて筑豊の近現代史と


地元の人々と炭坑とのつながりについて


7月から少しずつ調べてきました。


まず、光の部分で言うと


筑豊の炭坑経営者には筑豊御三家と呼ばれたおうちや


炭坑王(または石炭王)と呼ばれたかたがたがありました。


そうした大規模な炭坑を経営した人々の光の部分のひとつとして


地元の教育への貢献事業があります。


たとえば


筑豊御三家のひとりの貝島太助は小学校を3校創立し、


貝島育英会を組織し、貧しい家庭に学費を補助しました。


明治44年に歌人の柳原白蓮と再婚した伊藤伝右衛門も


炭坑王と呼ばれたひとりでした。


かつての朝ドラ「花子とアン」で


白蓮さんがモデルである蓮子が


九州の石炭王との見合いの後、


この縁談にまったく乗り気でなかったけれど


お相手は教育や慈善事業にも熱心で


近頃できた女学校にも関わっていると義姉から聞いて


その時だけ「…女学校?…」と関心を示す場面がありました。


実際、白蓮さんもこの飯塚の女学校で教育に携われたらと


希望をもっていたと伝えられます。


この学校が、伊藤伝右衛門(伝ネムさん)が創立した


嘉穂郡立技芸女学校です。


その生徒たちは伝ネムさんに感謝を伝えるためか


卒業に際して伊藤邸を訪問し


伝ネムさんと白蓮さんとともに写した記念写真が残っています。


この学校で教育に関わることを夢見ながら


その希望がかなわなかった白蓮さんは


この時、どのような気持ちだったのだろうかと考えることがあります。


その後、福岡県立嘉穂高等女学校となったこの学校が


戦後、県立嘉穂東高校となりました。


私の母校です。






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