「筑豊・最後の坑夫たち」展-山本詞が詠んだ世界
旧稲築町(現・嘉麻市)にあった三井山野炭坑が閉山したのは1973年3月。
その直前に、3人のアマチュアカメラマンが入坑して
地底の坑内労働の現場を撮影しました。
それまでは、撮影を許可されることは難しく、
ある炭坑では勝手に坑内を撮影すると懲罰にかけられたといいます。
それらの坑内写真を中心に、
1960年代後半から1970年代の作品101点を展示する写真展が
織田廣喜美術館(嘉麻市)で始まりました。
展示は
第1章 炭坑の風景
第2章 地底の坑夫たち
第3章 炭鉱町の暮らし
第4章 閉山の日
第5章 終焉の景
と展開します。
その作品の数々には、炭坑に生きた歌人、山本詞が詠んだ世界が
写し出されていました。
たとえば、坑内で、光る石炭の層に発破をかける準備のようす。
(山本詞は発破の作業を担当していました)
坑内でお弁当を食べるようす。
裸になって掘進をする坑夫たちのようす。
坑内から上がった後、炭坑の大浴場で炭塵と汗を洗い流す坑夫たち、など。
山本詞が旧制中学を卒業してから生涯働いたのは古河目尾坑であり
今回の写真が撮影されたのは山野炭坑、平山炭坑、上山田炭坑などで、
同じ筑豊でも場所や会社は違いますが
写真の中に、山本詞の短歌にある光景が次々に現れます。
特に、「我が家へ急ぐ坑夫」と題された作品(帆足昌平・1973年・漆生炭坑)には
山本詞が初期に発表した次の一首を思い起こさずにはいられませんでした。
声も無く鉱夫が家路急ぐとき残忍なるまで夕茜射す
本日は、撮影者の永吉博義さんと吉岡安臣さんによるギャラリートークが
行われました。
その中で印象に残ったものからいくつかをあげると―――
♦坑内に立てる坑木には松の木を使っていた。
昭和12年には、九州の松の木が無くなったといわれた。
(石炭産業の隆盛を物語るエピソード)
♦ボタ山が1m高くなるごとに1人死ぬといわれた。
(炭坑事故の頻発とその犠牲になった坑夫たち)
♦炭車(石炭を運ぶトロッコ)は当時クルマ(カローラ)と同じ値段だった。
(1台 70~80万だった)