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望東尼の”飯塚の桜はきりもすてなむ”


飯塚市歴史資料館の館長講座。

今月(第20回)のタイトルは

「幕末・明治の飯塚の文化活動 -俳人・歌人・画家をめぐって-」。

講師の嶋田光一館長のお話の中に

大隈言道(おおくま・ことみち)が登場しました。

ご存じのように、言道は福岡の商家に生まれますが

39歳の時に弟に家督を譲って歌の道に専心します。

弟子を多く取り、その中には勤皇派として有名な野村望東尼もいました。

そして、長崎街道の飯塚宿にも

当時としては斬新な作風だった言道を慕う裕福な町人や宮司たちがいて

その一人、古川直道の別荘、宝月楼に言道を招いてうたの指導を受けました。

言道は飯塚での滞在を気に入っていたようで、

なかなか飯塚から福岡に戻らないことを

弟子の望東尼が嘆いてこう詠っています。

 春ごとに君をとどむる飯塚の里の桜はきりもすてなむ

飯塚での指導は嘉永2(1849)年から10年間に及んでいます。

言道の作風は「今を生きるものは今の時代のうたを」というもので、

時代を先取りしていたために

存命中は黒田藩に重用されるなどということもなかったのですが

没後30年、明治の歌人佐佐木信綱が

たまたま古書店で言道の歌集『草径集』をみつけて絶賛し、

言道はその名を蘇らせます。

言道には手書きの歌集は他にもありますが

出版したのは『草径集』のみ。

歌集出版の望みを果たすべく大阪に出向いて10年間暮らすのですが

大阪に出立した折、言道は60歳。

その歌集出版を大いに援助したのが

言道の弟子で飯塚の造り酒屋「森崎屋」の主、小林重治だったのです。

ところで、今回の講座で『大隈言道さくらの歌』が紹介されました。

新開竹雨が著した、昭和7年刊行の書籍です。

言道は桜のうたをたいへん多く詠んだそうですね。

この書籍の中で、飯塚の人である竹雨が

飯塚のことをこのように書き残しています。

・・・・・・これより引用・・・・・・・・・・・・

(前略)重々しく澱みきつた、筑豊炭坑地帯の空気をよそに、

爽やかな筑紫野のみどりに包まれて、

さながら清楚そのものの姿にある、飯塚町の存在こそは、

昔も今も、旅ゆく人のうつろ心に、一味の情懐をそそらでは置かない。

灯の町、水の町、そして詩の町である。(後略)

・・・・・・・引用これまで・・・・・・・・・・・・

この文章を初めて読んで、ハッとしました。

私自身が2015年に詠んだ短歌が思い浮かんだのです。

 飯塚は音楽のまち雛のまち白蓮さんがうた詠みしまち

 キム・英子・ヨンジャ

僭越ながら、竹雨の文章と相通じるところがあると思いました。

飯塚は炭坑地帯で殺伐としたところというイメージもありますが

文化の香り豊かなところなのです✤


 
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